雨上がりの帰り道

ある帰り道のこと。 梅雨で雨や曇りが続いた空が、暫く振りに青空を見せた。高くなりつつある太陽の光が、僕には少しばかり か眩しかった。 その所為か、それともなに一つとして変らず上手くいかない毎日に憂鬱になっていたからか、下を 向き続けていた。 昨日の強い雨で溜まった水溜りが目に入ると、晴れ渡った空に、いくつか雲が浮かんでいるのが見える。 実際の空よりも美しく見えてしまうのは、なぜだろうか。現実とつながっていても全てが反転した世界。 上を見上げてみる。 思わず直視してしまった太陽を睨みつけ、再び水溜りに視線を戻す。 やはり、空は本物の方がいいのかもしれない。 その調子で、いくつも張られた小さな空を見ていれば、一つだけ絶えずゆがみ続ける空を見つけた。 何者かが、絶えず水面をかき回しているのだ。 アメンボ。そうはじめに思った。 水面を常に揺らす犯人といったら、そいつ以外に思い当たる節が無かった。 良いとはいえない視力で、見極めようと目を細めるもののどうしてもその実体を定めることが出来なかった。 少し道を外れるように、水溜りに近づいてゆくうちに、なぜ自分がそのものの正体がわからなかったのかが わかった。 それは、僕が思い込んでいた答えとは違ったからだ。アメンボをみようとしていた脳が、対応しきれてい なかっただけだ。簡潔すぎる答え。 蟻が水溜りの中を泳いでいるところだった。水が苦手だろうし、普段水を泳ぐ姿なんてそう見るものでもな い。必死にもがいている様子はおぼれているようにしか見えない。 暫く見つめていたが、疲れる様子もない。自分なら、既に疲れきって沈んでいるだろうと思って、頭の中で 一人苦笑した。 やがて、かわいそうに見えてきた。もがいてももがいても、進む距離はたかが知れている。渡りきるのに どれだけかかるのかわかったものではない。 そう思うと、自然と手がでた。 水たまりの中に指を突っ込む。人にはなかなか差し伸べられない手が、虫には簡単に出せるのはなぜだろう か? 日光に温められた水に触れると、適度な温度でキモチがいい。 蟻をつぶしてしまわないように、一 番近い岸に向けて水の流れを作ってやる。彼がもがくのよりも、圧倒的 な速さで岸に近づいていく。 あっという間に地面に足がついた。まだ、体の半分は水につかっているが、どうにかすれば抜け出せる場所 だ。そこからは、指でどうにかしようとすると、つぶしてしまいかねないので見守ることにした。 相変わらず、おぼれたようにじたばたと暴れている。 やがて、蟻は、もと居た水溜りの中心部の方へ泳ぎだした。折角、岸辺まで運んであげたというのに。 恐らく、泳ぐ方向を間違えたのだろう。そう思い再び岸辺の方へ戻してやる。 だが、蟻は水溜りへ入っていく。こいつはばかなのか?半ばあきれながらも、また陸地へ近づけてやるが 自ら泳いでいってしまう。 やがて自分でも笑ってしまうような、可笑しな考えが浮かび始めた。 もしかして、この蟻は自分自身でこの広い湖を渡りきりたいのではないか?自分自身の意思で。誰の手も 借りず、自分自身の力を信じて。 実に可笑しな考えだ。虫に感情があるとは思えない。思えないというよりもそうゆう脳のつくりをしていな いはずだ。そこになんらかの感情が生まれるわけがない。 だけれども、そんな考えは妙に、彼の行動と重なり納得できた。 僕は、最後に、もがき続ける蟻に軽い敬礼をしてその場を立ち去った。 次の日、やはり同じ場所を通った。 今日も雲がところどころに浮ぶ晴天だ。 相変わらず、空は眩しく手を目の上にかざしながら下を見つめる。今日もいつもと変らない一日だった。 そう思って歩き続ける僕は気がついた。 昨日の水溜りが干上がって、無くなっているのだ。乾ききってそこに、水溜りがあった名残はすっかりなく なっている。ちゃんと観察していた人でないとどこにあったかなどわからないだろう。 昨日の僕を思い出し、道の真ん中で水溜りとにらめっこしている大きな少年を想像して苦笑した。なんとも 恥ずかしいことをやっていたものだ。 それでも、その周囲を見回してみた。蟻の死骸と思わしきものはなかった。 無事に渡りきったのだろうか。 それとも、途中でおぼれ死んでしまったあと、他の虫か風かに攫われていったのか…。 その真相を知ることはできなかったし、蟻一匹の末を考えているのはあまりにばかげていたのでそれ以上 考えるのをやめた。 ただ、僕がその蟻と向かいあっていた間、普段よりも充実した時間ではなかったか、そう思った。 あまりに小さなものを、無意味なことをしていたというのに、前日とは丸っきり違った楽しみがその場で 起こっていたことに気がついた。 なにか大きなことなどなくていいのかもしれない。ただ過ぎる一日の中で、いかに小さな違いを感じられる か。それだけで、一日はいつもよりも大きくなるのかな。そう思う出来事だった。 一日一日を大切に。小さなことに目を向けていくことが、日々を楽しくする秘訣ですね、はい。

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